Parrishの結成、翌年のアメリカツアー、社会人バンドとなったあたりを綴っています。
もう20年以上前の昔ばなしです。。


1.パリッシュ始動(1988-1989)

当時、K西大学学生の「中日」(Banjo)、R命館大学学生の「千拓樹」(Guitar,Vocal)が新しいブルーグラスバンド結成を計画。コンセプトは「くっさいブルーグラスをやろう!」(「くっさい」は "Traditionalな=伝統的な" という意味で「昨日ぎょうざ食うたやろ?」のくっさいとは違います)そしてメンバーの人選を開始。

1988年暮れ、K戸大学の「ボンイナフネ」(Mandolin)は唐突に先輩にあたる中日、千、南大助さん(中日と同大学)から京都で飲もうと誘われる。しこたま飲まされ、へべれけ状態の中「今度新しいバンド組むけど、一緒にやらへんか」との声に誘われるまま即加入。(このあと中日が泥酔、深夜喫茶店のトイレの中で寝てしまい店員を困らせる)

Bassはウッドベース弾きということで、稲船の先輩でK戸大学の「萱苗(かやみょう)」に白羽の矢が立ち本人も承諾。

K戸大学の「こくぶジロー」(Dobro)は主にBanjoを弾いていたが、Dobroでの加入を要請。

サイドギターとしてO谷大の「永森」を加入させ、ここに関西最強の学生ブルーグラスバンド(ある意味最低という説もある) パリッシュの原形が誕生。早速練習を開始する。しかし「Parrish」という名前は、このときにはまだついていなかった。

1989年3月、千は単身で渡米。イリノイ州ジャクソンビルでのインドア・フェスティバル("Jacksonville Spring Indoor BluegrassFestival")で「外人がきた」(もちろん外人は千のこと)と歓迎される。田舎町の小さなフェス(*)で、 日本人はめずらしく且つブルーグラスをやっているとなればなおさらのことだったのでしょう。そこで、主催者のテリー・リースさんから「来年はバンドで来いや」 と(当然、英語で)言われる。千は「OK,OK」といい加減な返事をするが、これがParrishの一大事件に発展しようとは、このとき気づくべくもなかった・・・。

(*)フェス(=フェスティバル):ブルーグラス愛好家たちが集まりジャム・セッションしたりステージで演奏したりするお祭りみたいなものです。

4月、大阪は心斎橋にあるマツダのショールームでのイベントで初めてステージで演奏する。メンバーは、千、中日、萱苗、稲船、永森の5人(ジローは不参加)。イベントには、たまたま来日していたトッド・フィリップス (ex.David Grisman Quintet)が遊びに来ており、1曲ジャムしてもらう。また、図々しくもバンドの名前を付けてください、とお願いしてみたら「マツダ・ショールーム・ボーイズ」がいいって(おいおい、それはいくらなんでも。。。)。しかし永森はここで早くもリタイアしてしまう。(ゆえに彼は幻のParrishオリジナル・メンバーなのです)

阪神ファンの千は、西京極球場で阪神−ヤクルト戦を観戦、ヤクルトの新助っ人外人が打ちまくっているのを見る。「パチョレックは凄いな、さすが現役大リーガーやなパチョレックは」とパチョレック、パチョレックを連発していたところ、前列の女性ファンが千を振り返り一言、「パリッシュ!」。 そう、千はパリッシュと(横浜の)パチョレックを見事に間違えていたのだ。その言葉の響きがよかったのか、バンド名を「パリッシュ」にしようと思い立った。 (こんな事件がバンド名の由来なのである・・・ちょっと悲しいかも)

5月はじめの3連休、本格的な始動を目指し滋賀県はマキノで合宿。合間にプロモーション・ビデオ撮影なんかして遊んでいたが(このビデオは現存。結構笑える)本当にハードに練習した。その燃えるようにハードな練習と、最終日に起こったある大事件により、この合宿は「燃えるような合宿」とパリッシュのマニアの間では語られている。その大事件とは・・・危なくてここには書けません。(メンバーに直接尋ねて下さい)

合宿後程なく、日本では最大のブルー グラス・フェスである宝塚ブルーグラス・フェスにて、千、中日、ジロー、萱苗、イナフネで「Parrish」としての公式デビューを飾る。その時の模様は、奇跡的にテープに録音されている。(改めて聴き返すと、本当に皆さんに盛り上げてもらってます。ありがたいことです)

ある日、千がアメリカでお世話になったテリーさん(先述)から電話があり、「来年はほんまにバンドで来るんやろな!?」(もちろん英語)。さらに、千宛てにテリーさんからエアメールが(当時は勿論、E-mail なんて便利なものはありませんでした)。それは、来年のジャクソンビルのフェスのビラであったが、何と!そこには「Hideo Yanagida The Parish Ohtsu Siga Japan(*)の文字が。これはえらいことになった、ほんまに行かなあかんみたい・・・ 来春の渡米がここに決定した。(アメリカのフェスに出る・・・なんてかっちょいい響きではないか!)

(*)Hideo Yanagida(柳田 秀夫): 千 拓樹のこと。一応ちゃんとした名前もある。

テリーさんからエアメールで送ら
れてきたフェスのビラ。
このビラによってParrishは渡米
することになってしまった・・・。
アメリカ人にはYes, Noをはっきり
言いましょう。

夏の宝塚フェス、京都船岡山フェス、関西地区大学の学園祭、イベント等でライブ。ハードな練習とライブ数をこなし、アメリカ遠征に向けバンドは更に精進を重ねる。


2.アメリカツアー(1990/2/28-3/17)

1990年2月28日(水)、ついに渡米。メンバー5人プラス中日の大学の後輩である大同門がついてきてくれて6人で、最初の目的地、テリーさんが待っているイリノイ州ジャクソンビルを目指す。

伊丹空港発ユナイテッド809便でサ ンフランシスコヘ到着。ローカル便を2本乗り継ぎセントルイスへ、そこからジャクソンビルまではレンタカーで向かう。左ハンドル、右側通行に戸惑いながら も快適な深夜のドライブ、2時間で到着・・・するはずだったが、いきなりトラブル発生!車の背後に赤と青の光・・・パトカーであった。何とスピード違反!制限速度35マイルのところ65マイルも出していた。でも道は広いしまっすぐだし田舎道でほかに車も走ってないし、まったくスピード出しすぎの感覚はなかったのだが・・・。
レンタカーが狭かったので、車から降りようとしたら「ちゃんと中にはいっとれ!」って(もちろん英語)怒られるし・・・。でもこの警官、こんな田舎で日本人で言葉もわからんし国際免許証だし手続きめんどくさいしって思ったのか、見逃してくれました。危うくアメリカで犯罪者になるところ、ラッキーでした。
3月1日(木)午前2時少し前、ジャクソンビルのフェス会場「ホリデイ・イン」に到着。

3月2日(金)、フェスが始まる。初日はフィドル・コンテスト(*)だったので、出番なし。

(*)フィドル:バイオリンのこと。バイオリン・コンテストですな。

3月3日(土)、フェス2日目。ここから参加バンドのステージ。
メイン・ゲストはパリッシュ・・・そんなわけはなく、サリー・マウンテン・ショー。ボーカルはロンダ・ビンセントでさすがプロ!歌はうまいし声量あるし楽器うまいしステージ衣装はバッチリだし美人だしおまけにレコードまで売っていた。

その他、ブルーグラス・ブリゲイドミズーリ・トルネーズ(マンドリンが上手だった)、マギー・クリーク・コネクション(このフェスの主催者、テリーさんがマンドリンを弾くバンド。テリーさんのマンドリンは・・・あれ?)と、ローカルバンドの泥臭い演奏があって、それぞれいい味を出していた。

ミズーリ・トルネーズのギターのおっちゃんはかなり怪しかった。身 長約150cm体重100kg(推定)、両方の二の腕に刺青があり、やたら商売したがる。イナフネは「にいちゃん、ええ楽器あるで!」って声を掛けられマンドリンを売りつけられそうになった。
千は身に付けていたロレックス(の偽物)を狙われる。

おっちゃん「兄ちゃん、その時計、なんぼや?」
「1万円くらいや」
おっちゃん「ワシに30ドルで売らへんか」(と30ドルを目の前に 出す)
「つれに買うてきてもらったもんやし、いやや」
おっちゃん「ほな、これで、どや?」(と目の前でもう3ドル積む」

千「いやや」おっちゃん「ほな、これで」・・・としばらく続き、45ドルまで積んでおっちゃんはあきらめた。
僕らは、このおっちゃんを「密売人」と呼ぶことにした。しかしこのおっちゃんくらい、訳して関西弁がはまるアメリカ人はいない!(当時1ドル=150円くらいでした)

そして、なぜかトリを頂戴してしまったパリッシュの登場 (当時まだ「Parish」、"r"がひとつだった)。
最初ステージに立ってみると、マイクの位置が高い!首ひとつくらい高い。当然今までの出演者はこれで歌っていたわけで、あぁ僕たちは日本人だと思った。演奏は、緊張もせず楽しく元気よくといつもの調子でこなしていく。思いのほかお客さん(当然アメリカ人ばっかり)も喜んでくれる。さらに、ロンダ・ビンセントとジャムしたり(*)、最後にはスタンディング・オベーションまでいただいて、最高のステージを経験。
また、ステージ後控え室までお客さんがいっぱい尋ねてくれて握手したり、サインしたり・・・とちょっとしたスター気分を味わう。(多分こんなこと一生ない!)

(*)ロンダはその後メジャーデビューを果たし、93年にはBillboardのカントリー・チャートで1位となる。いやぁ、凄い人と共演したものです。

アメリカの片田舎に、日本人のブルーグラスバンドが来たのがよっぽどめずらしかったらしい。ジャクソンビルの地方新聞のバックページを飾るわ、テレビニュースで紹介されるわと、熱烈歓迎状態。(同時期、日本から海部首相(当時)がブッシュ大統領(当時)を訪問していて、これが新聞のフロントページでした)

テレビのローカルニュースで紹介される。
パリッシュ、アメリカでテレビ出演!
我ながらかっちょえぇ〜!
千はテレビのインタビューを受ける。
なんかそれっぽく英語で答える千。
影響を受けた音楽は?との質問に「フォーク・
ソング、ビートルズとジャパニーズ・エンカ(演
歌)
」と答えたが・・・
アメリカ人にはジャパニーズ・エンカがポー
ル・アンカと聞こえたらしい・・・。

「フォークとビートルズとポール・アンカ・・・?
よくわからん奴だ」とキャスターに言われて
しまった。

3月4日は日曜日、教会へ行って神様にお祈りするかわりにちゃんとスーツを着て、ゴスペル(オー・ジーザスと神様を称える歌)だけ歌えと午前中20分もらい演奏。前の晩、みんな他バンドと夜遅くまでジャムして睡眠不足、ジローなんか寝ぐせ頭で演奏はちょっとへろへろ。それでも何とかこなす。
イナフネは小学生くらいの女の子から「スーツ似合わねー」 と(もちろん英語で)ばかにされる。(が、英語で言い返せないのが悲しいわけです・・・)

3日間があっという間に過ぎ、お世話になったテリーさんからギャラの400ドルをもらい、次の目的地であるナッシュビルへレンタカーを走らせた。目的は2つ、中日のバンジョー購入と、何と!ステーション・インのステージに立つこと。
ステーション・インは、ブルーグラスのプロ・ミュージシャンが演奏するライブハウス。そこに日本から来たアマチュアの学生バンドが出演する・・・何と大それたことでしょう!

3月5日(月)夜、ナッシュビルに到着。とあるスーパーマーケットに入ったら、お客から店員さんから全部黒人!そういえばジャクソンビルでは黒人の姿は見かけなかった・・・。これもアメリカかと思う。軽くショックを受ける。

3月6日(火)昼間、カーティス・マクピークさんの楽器店(ほとんど自宅)へ行き、中日は憧れのマスタートーン、ギブソンRB-800を購入。ジャパンマネーを炸裂させる。
そして夜。出演は翌日だったが、ジャムしにおいでと言われていたのでダウンタウンへ向かう。

憧れのステーション・イン!ドアを開けるとジョン・ハートフォードがタップを踏みながらフィドルを弾く姿が!かっちょえぇー!ハートフォードを中心としたジャムが1時間、パリッシュはその後、数曲演奏。

3月7日(水)、パリッシュ・ライブ・アット・ステーション・イン!
ほんとはマイク・コンプトン(ex.Nashville Bluegrass Band)のジャムの予定だったのに、日本から来た変な学生バンドの為に時間を譲ってくれたのだそう。なんかとんでもないことになっている。
ステージは、アットホームだったジャクソンビルと違い、もの凄く緊張し た。昨日ハートフォードが立っていた、今日本当ならマイク・コンプトンが立っているはずのステージに、私たちパリッシュが立っているのだから・・・。それでもお客さんは温かく迎えてくれて、おかげで緊張のステージを何とか無事終了。あとは、遊びにきていたプロ・ミュージシャンからサインをもらったり、握手してもらったりと、すっかりブルーグラス・ファンに戻って楽しむ。

ここまでで、ミュージシャンとしての演奏旅行は終了。あとはただの観光旅行と化す。ナッシュビル観光、ブルーリッジ・パークウェイのドライブの後、フロリダへ飛ぶ。

Parrishのアメリカツアーに同行していた大同門は、とあるハンバーガショップのカウンターで注文しようと店員のお姉さん(当然アメリカ人)に話しかける。

大同門「One Hamburger and Coke, please.」(ハンバーガーとコーラください)
店員さん「OK」
大同門「Travellers' Check, OK?」(トラベラーズ・チェックで支払っていいですか?」
店員さん「With Coke?」(コーラと一緒に、ですか?)
大同門「「?・・・yes.」(なんかようわからへんけど、はい)

そして、ハンバーガーとコーラが運ばれてきた・・・あれ?カップ2つ持ってるぞ。中を覗くと1つはコーラ、もう1つは・・・ストロベリー・シェイク?どうやら店員さんには「Travellers' Check」が「ストロベリー・シェイク」に聞こえたらしい・・・。どうりで「With Coke?」って言うわ。そして大同門が両方飲んだのは言うまでもない。(こんなのばっかり・・・)

フロリダ州ゼファーヒルというところで開催されていたフェスで、「ブルーグラスの父」ビル・モンロー(*)のステージを観る。
その圧倒的な存在感に感動。しかし、ステージを降りた彼は、ちょっと足元の危ない優しい(普通の)おじいちゃんだった。一緒に写真を撮ってもらったり、サインをもらったり、少しだけ話しもできたし、とってもうれしかった。

(*)ビル・モンロー:1996年他界。 Rest in Peace...

その後、ディズニーワールド、キーウェスト観光して、サンフランシスコから帰国。伊丹空港の税関では、楽器もってて汚い格好が災いしてか、普通の観光客よりも手荷物を念入りに調べられた。クスリでも持ってると疑われていたのでしょうか。でも、洗濯してないパンツまで出さなくても・・・。

パリッシュのアメリカツアーはこうして無事終了したのでした。

★その他渡米時のアイテムも後から発掘されています。


3.社会人バンドへ(1990-1993)

アメリカから帰国後、千、ジロー、萱苗の3名はそれぞれ大学を卒業し社会人となる。
しかし、萱苗は福岡の配属となりバンド活動が困難となった為やむなくリタイヤ。
後任の人選は困難を極めたが、学生では数少ないウッドベース弾きにあくまでこだわるパリッシュは、K西外大在籍の「ばばふみお」を加入させる。新メンバーを迎え、さらに練習を重ねる。

少なくてもブルーグラス業界では、日本の学生バンドがアメリカでステージに立ったことは史上初であり、ブルーグラス専門誌「ムーンシャイナ」(B.O.Mサービス発行)でも記事として紹介された。(でも原稿は中日が書いた)

90年は宝塚の春・夏フェス、学園祭等での演奏、イベント等への出演、ライブハウスへのスポット出演等こなす。

91年春、稲船が大学卒業し社会人となるが配属が名古屋になってしまう。が、バンド活動時は近鉄で関西へ出向くことで引続き在籍。この頃から、大阪は難波のライブハウス「ジュリアン・ソレル」での月1回のレギュラー出演を獲得。ホットなライブを展開。

91年夏、「読売テレビ夏祭り」のイベントに出 演。このとき、ばばは何を勘違いしたかベースにナイロン弦を張ってくる(普通はスチール弦)。この為音の立上がりが悪く(ボン、ボン、ボン、ボン・・・って音のはずがムォン、ムォン、ムォン、ムォンって感じ)バンドはリズムが採れない。ばばは他メンバーにしこたま叱られてしまう。このとき控え室のホワイトボードを使っての「絵しりとり」は他の共演バンドにも受けていた。

92年春、ばばが卒業、社会人となる。

92年夏、千の従兄で大学の先輩でもあるギター・ボーカルの「根路真樹夫(ねじまきお)」がフィドルで加入。年長者であるねじの指導もありバンドの演奏、コーラスは格段にレベルアップする。また、彼の巧みな話術と手品によりステージングもいっそう華やかとなった。

92年12月、京都の「ナッシュビル」のクリスマスパーティーに出演。リロイ・マック(ex.KentuckyCornels)と1曲ジャムしてもらう。曲はケンタッキー・カーネルズの「If You Ever Gonna Love Me」。カーネルズの曲をカーネルズのメンバーだったリロイとジャムできてメンバー一同感激!その「If You Ever Gonna Love Me」がリロイの作曲だと知ったのは共演の後。勉強不足ですみません・・・。

92年は、大阪は枚方市交野の「おじいさんの古時計」のクリスマス・パーティーでの演奏で終了。

93年春、大学生活を最大限満喫した中日が大学を卒業、社会人となる。これによりParrishは社会人バンドとなった。

4.その後の活動(1993-)

(その後現在までのParrishはマイペースな活動に入る。月1回のライブと小さなイベント等への出演などの活動をぼちぼちと、楽しくやってます。そのなかでもParrish周辺のトピックとしては・・・)

93年春、大阪は難波の「ジュリアン・ソレル」から、神戸は三宮の「神戸ホンキー・トンク」へライブ活動の拠点を移す。ホンキーへはそれまでスポット的に出演していたが、ここに毎月第二土曜日のレギュラー出演を獲得する。(稲船は大学時代、ここでアルバイトしていた)

94年8月、千が家業のヤナギヤ電器商会を継ぐため会社を辞める。そして10月に結婚。披露宴は琵琶湖のミシガン号での湖上パーティーで、Parrishは余興で演奏。(もちろん千も出演、新郎自ら余興にでることになった・・・)

95年3月、ねじが新バンド結成の為リタイア。Parrishはフィドル、バスボーカル、軽妙なMCを失うがバンド活動は当然継続。

96年7月、中日が結婚。人前結婚で司会は千が担当。千のときに引続きまたもParrishは余興で演奏。(あとのメンバーは未婚ですが、この「新郎自ら余興に出る」パターンは今後続くものと思われます)

[96年 ホンキートンクのクリスマス・パーティーのチケットに使った画像]


Parrish結成から現在までの活動はこんなところです。メンバーチェンジもありましたが、今までほんとに長いこと やってきました。今では全員社会人としても忙しく、年齢も当時のメンバーは既に40歳を超えてしまい、さすがに学生時代ほど派手な活動はやってませんがマ イペースで楽しく続けていこうと思ってます。これからもParrishをよろしくお願いします。

尚、97年以降の活動については、こちらでご覧ください